バイオリンと録音と

クラシックのコンサート、バイオリンの演奏方法、バイオリンのグッズについての記事多し。他、楽譜(Lilypond , Sibelius)、和声学、作曲、DTM関連を取り扱っております。

2013年04月

『2本のバイオリンのための組曲』を登録しておきました。
https://drive.google.com/open?id=1ynOSxS_4CD97qe05fArVmIE9hvtV6TD5

冷静なる弓

 先日、素晴らしいオールド弓を見つけてきたのだが、少し冷静になって購入を考えてみることとした。というのもある知人が、

「その弓で何がしたいのか?」と尋ねたきたからである。

この一言は、結構、ぐさっと来た。そう私は何がしたいのであろうか。その弓は本当に必要なのだろうかということだ。冷静になってみると、別に人に聴かせる商売をしているわけではないのに、100万円の投資は、妥当なのかということにつきる。第三者からみれば、たかが棒なのである。論理的には、それを欲する理由はない。 無駄な投資である。でもクラシック音楽は、たくさんの無駄なものからできている。無駄に楽譜購入して、無駄に練習し、無駄に高いコンサートチケットを購入し、無駄に音楽を聴いているのである。そして気に入った演奏ならCDを買って、無駄にサインしてもらっているのである。 そもそも人間そのものが、地球にとっては無駄なのではなかろうか。
 無駄であるという呪縛を突破する理由は、唯一、それがほしいという欲望のパワーだけである。

ということで、観念論を突破したのだが、今度は、それより良い弓がなかったのかという疑問に回答できなければならない。

で、早速、自分のバイオリンを持って、楽器店へいった。そしてくだんの弓を試奏してみたのだが、「???」という感じなのである。断然に音色が良くなるであろうと大いに期待していたのだが、音色に関しては、今持っている弓とさほど変わらないのである。また別の新作弓でもおなじこと。音色に大きな変化はない。弓の音というよりは、バイオリン本体の音の方が優勢なのである。

さらに操作性は、もちろんくだんの弓の方が優れていたのではあるが、同じ価格帯の新作弓の方もなかなかの具合がよかったのである。

で、バイオリンを変えてみた。今度はお店にあるモラッシーの新作バイオリンなのだが、これだと大きく音色が異なることが再確認できた。自分の持っているバイオリンとモラッシーのバイオリンで何が違うのか、キョトンとするより他なかったのである。迷いが生じた。
弓の性能が、自分のバイオリンを超えたのか、モラッシーの新作バイオリンのどちらを超えたのであろうか。どちらが正しいのか?あるいは正しくないのか?

 お店の人は、くだんの弓の方がよいとおっしゃっていたのだが、私の脳内では違いはないと言っている。王様の耳はロバであっては駄目なのである。クラシック音楽を聴く上での基本なのである。

 迷いが生じたときに買い物をするとろくなことにならないので、その日は、店をでることにした。

 数日して、今度は別のお店へいってきた。都内の大きな弦楽器店には、ギヨームの金黒檀の弓が常備されており、私はこれをリファレンスにしているのだが、2店舗だけは、極めて優れた弓であって、びっくりした。ギヨームってこんなによい弓だったけと言う感じ。
 大体、この弓は、都内一律で、105万円の定価である。いつものようにそんなに大したフェルナンブコではないと思っていたのだが、今回のはかなり優れものがあった。これは見ただけでわかるほど。こちらは、かの弓よりも、しっかり弦にひっかる弓なのである。この感じはとても快感であった。なんでお店によってこんなに差がでるのだろうとも思った。

さらに値段はもう少しアップするが、本命の弓を見つけた。これは今までみたなかでも、最高のフェルナンブコを使っている感じで、弓がかなり細く作られており、艶がありとても美しい弓だ。

こちらも新作弓とのことだが、オールド弓に劣らぬ音色、操作性、ひっかり感じがあった。さてさてどうするか。またまた考えてしまったのだが、弓の国内価格は、海外の2倍ということもあり、これだけの値段を出すのであれば、ニューヨークあたり行って帰ってきても元がとれるのではとも思ってしまうのであった。

 あるいは、ケース・ファン・ヘメルトさんとか、 笹野光昭さんとかの弓職人に作ってもらうという手もありかなとも思ったりするのである。保留の美学か、「今でしょう」なのか悩ましいところである。

●どうでもよい話

 バイオリンの場合は、買い取り制度があって、有名作家の場合、バージョンアップさせることができる場合も店によってはあるのだが、弓の場合は、その制度があまりない。100万円の弓でも20万円で買い取ってくれればよい方とのこと。なので、ヤフーオークションには、なんでこんな値段でこの弓がというのがたまに出品されるのでしょうね。


 

ドガール カプリッチョ ソリスト

弦楽器フェアーから6ヶ月くらいたち、ようやくドガール カプリッチョ ソリストというバイオリン弦が発売になった。

ドガール カプリッチョ ソリスト


弦楽器フェアでの記事は以下参照。
弦楽器フェアに行ってきた



このときのレビューでは結構よい評価をしており、輸入してでも購入したいと思っていた弦であったのだが、下倉楽器で入荷したということをネットで知り、さっそく購入した。

まずは、第一印象。う〜ん。思っていたイメージと異なる。

音量:かなり豊か。太い。

音質:奇麗な音であるが、D線とG線は輪郭が少しぼけているような気がする。
   E線、A線は、華やかな感じで好みだが、近くで聴いていた母親の意見だとキンキンするらしい。

反応:まずまず。

輪郭がぼけている点については、弦楽器職人さんに聴いてみたところ楽器の調整が必要とのことで、しばらく様子をみて調整してもらうことにする。現在のお気に入りのヴィジョン・ソロと比べて、音に張りがなくなったような気がするが、これはこれでありかなあ。少し好みが違うがという感じである。印象的には、ピーター・インフェルドを派手目に調整した感じの弦なのかなあと思っているしだい。


【注意書き】
弦に関しては実際に自分の楽器に張ってみないとわからない場合も多いし、新作弦の場合、ロットによっても随分変わったりするので、上記は参考にもならない記事である。私の楽器の場合、オリーブやオイドクサはまったく合わない。ヴィジョン・ソロ、ヴィジョン・ソロ・チタニウム、エヴァ・ピラッティ、オブリガートが良くあうようなのである。

以上。

 

シベリウスの美味しい聴き方

シベリウスは、評価が難しい作曲家の一人である。彼の音楽は、じっくりと聴き込まないとわからない部分が多くあり、初心者、中級者レベルの音楽愛好家ではその良さを認識しにくい。中級者から上級者へいくには楽譜を読みこなす力が必要になるが、その意味では、仕掛け多き本物のクラシック音楽を紐解くトレーニングになるよい作曲家である。


シベリウスの交響曲を紐解く鍵は、『北欧の自然』という安易なキーワードではない。このキーワードで解ける範囲は、せいぜい交響曲第2番までの初期の作品までである。中期、後期の作品を聴く上のでの鍵は、メロディの紡ぎ方に耳を傾けることである。シベリウスの作品にはよくあることだが、ある一つのテーマを提示する場合、モーツァルトのように一つの楽器でまずは一通りのテーマを明確に提示しておき、次に変奏していくという常套句は取らない。
 

出てくるのは、先づはテーマの兆しであり、テーマの部品である。この部品の提示も独特である。弦楽器には弦楽器の、木管楽器には木管楽器の、金管楽器には金管楽器の専用部品が与えられており、これらが曲の進行とともに徐々に絡まっていくなかで次第にテーマが明らかになる。一つのテーマが明確になったとき、その後で奏されるのが、金管楽器を中心とした吹き流しである。この吹流しは、フォルテピアノからクレッシェンドされデクレッシェンド、さらにクレッシェンドからデクレッシェンドしクレッシェンドして終わるというパターンが多い。それは、一度明確になったテーマを霧の彼方へかき消すような効果を醸し出している。
よってシベリウスが苦手な人は、この構造を理解して聴いておけば、曲全体の中で何がおこっているかわかるだろう。私はこの独特な曲の構造のことを山登り構造と呼んでいる。見晴らしのよいところまで来ないとなかなか全体がわからず、遭難してしまうことがあるからだ。

こうした鍵を手に入れた人は、喜んでサントリーホールへ向かえばよいのである。そう本日は、シベリウスの交響曲シリーズなのである。

日時
2013年4月27日(土) 14:00 開演 (13:10~プレトーク)
曲目 シベリウス 
  • 交響曲第3番
  • 交響曲第6番 
  • 交響曲第7番
日本フィルハーモニー交響楽団/指揮:ピエタリ・インキネン

このコンサートには、プレトークがあり、そこで、難しい調性のお話があったのだが、トニック、ドミナントの話、音の色が見える「共感覚」のオカルト話など、普通の人はこんなのは理解できないのである。それよりも私が先ほど書いておいた構造を理解する方が、遥かに楽曲の理解の助けになるはずである。

と、ジジイのボヤキはこれくらいにしておこう。

今回、秀逸であったのが、交響曲第6番と交響曲第7番を連続して演奏したこと。第6番は静かに終わり、第7番は静かに始まるので、通して聴くと、これが1曲の交響曲に聴こえるというもので、このアイデアは素晴らしい。第6番が終わったあとの無駄な拍手で邪魔される事なく第7番が始まる。山奥の湖などの何か神聖な場所へ来て、沈みゆく太陽をみるかのような神秘的な雰囲気で満たされているような感じだ。第7番の盛り上がる部分で提示される主題を聴いていると何かこみ上げてくるものがある。なんだろうこれは。単体の7番では味わえないない深いものがある。

お客さんの方も感動したのか、いつもより熱い拍手がなりやまなかった。

でもつくづく思うが、シベリウスのように聴き手に一切媚びずになるような神聖崇高な音楽を聴いていると、音楽の神様に出会ったように心が洗われているような気がするものである。もうそろそろ第2なんか卒業して、4番、5番、6番、7番をプログラムの中心にしてほしいものだ。こういう音楽がわかる人が増えてきているのだから。


 

楽器の縁、弓の縁

 ああ、ムローヴァの王子ホールのリサイクルに行けなかったのが本当に残念しごく。行った人のブログを読むにつれため息がでるのみである。おそらく世界最高のバッハを聴く事ができたのではと思う。この最高を聴くためには王子ホールの会員にならないとこの幸運は手に入らないようである。
今回は、ショスタコーヴィッチをNHKホールで聴いたが、バッハと比べれば、音楽としての格が全然違うのである。 ショスタコーヴィッチは、今若手クラスのバイオリニストにとっては、一つの試練ではあるのだが、ムローヴァのような超一流クラスになると、演奏したときにすでに曲として完成させてしまっているのである。逆にいうと、いかに難曲といえども完成できてしまうレベルの曲でしかないということだ。
 その点、バッハは、底が深い。どんなヴァイオリニストが演奏したとしても、様々な可能性がある。その一つをムローヴァは技術面、精神面で極めているのだが、別のアプローチも十分に可能であり、イザベル・ファウストのような楽譜を極めつつ人に音楽を問うような音楽も可能であるし、テツラフのような速いテンポのなかでそのギリギリを極めていくようなやり方、クレメールのような知的アプローチ、ユダヤの音楽と合体したようなギル・シャハムのような演奏や、レイチェル・ポッジャーのような普段着のバッハ、ヒラリーハーンのすべての音符をブリリアンカットしたような演奏など、など。バッハの演奏においては、どれが史上最高な演奏なのかというのは、ほとんど意味をなさない。そのすべてが許容されているからだ。

 と本題に入る前に、少々愚痴モードであるのは、じじいへの始まりである。芸術は常に若者でなくてはならないということで、久々に楽器店めぐりへ。

 よく楽器に呼ばれるという言葉があるが、ふいに訪れた店に出会いがあることがある。今回は弓である。なじみの店員さんが、ささっと出て来て、「よい弓があるので弾いてみないか」ということで2本の弓をみせてくれた。1本は、新作弓で価格にして80万円クラスのもの。もう一本は、わけありで入荷したというフランスのオールド弓である。店員さんの説明によると、オールド弓の方は、おそらく1900年前後につくられたある有名な弓職人が晩年に製作したものであるとのこと。鑑定書もついていた。

とりあえず、見てみたのだが、最近では手に入らない上質なフェルナンブコ材を使っており、弓の腰もしっかりしている。トルテ型のヘッドが特徴的である。まあ、とりあえず弾かせてもらったところ。その音色にびっくりした。

ほしい弓

日頃、聴いているプロの音になっているではないか。弓でここまで音色が変わることに驚く。スピカートもモーツアルトのコンチェルトで試してみたが、ポンポンと楽しく飛んで行く。弓に吸い付くような感じがする。新作弓を試してみたが、まるで格が違うと言う感じで、高級な新作弓の方がプラスチックでできているのではと錯覚するくらいの品の違いである。

いろいろ弓は見て来たが、数100万クラスではなく、300万以上クラスの風格がある。でこの値段??と思ってしまうが、一カ所難点があるのだ。それは一回修理しているということ。幸いにして音色に影響する部分ではぜんぜんないのである。

これは、ひょっとして出会いなのかしらと思いながら、店を出た。おそらくこんな弓にこの値段で出会うことはこれから先ないであろうなあと思いながら。

 

音楽の筆跡

本日は、ヴィクトリア・ムローヴァ聴きにNHKホールへ。

実はNHKホールの日曜日のコンサートはあまり行きたくない。客層が、年配の方が多いせいか、どことなく弛んでいる感じがたまらなく嫌なのである。大体、コンサートホールのロビーに自販機がおいてあることからしてダメダメの雰囲気が満載されている。これが、サントリーホールだと随分と雰囲気が変わるのであるから不思議である。案の定、ムローヴァが演奏するショスタコーヴィチだというのに緊張感がまったく感じられない。まあ、このところは十分に予想しておいたので、今回はムローヴァと対峙するくらい思いっきり前の席へ出張っておいた。

第1751回 定期公演 Aプログラム
2013年4月14日(日) 3:00pm
NHKホール
指揮:ピーター・ウンジャン
ヴァイオリン:ヴィクトリア・ムローヴァ
 

ショスタコーヴィチ/ヴァイオリン協奏曲 第1番 イ短調 作品77
ラフマニノフ/交響曲 第2番 ホ短調 作品27 

 ショスタコーヴィチの1番に関しては最近は、よく演奏されているせいか、かなりオーケストラのアンサンブルの精度が上がっているように感じる。日頃N響のことをあまりよく言わない私が聴いてもなかなかのものだと思った。特にリズム感がシャープなのがよい。こうした完璧なアンサンブルだと、さぞソリストもやりやすいのだろうと思ったしだい。
 ムローヴァは、オレンジ色のドレスで少しかわいい感じのファッションでやってきた。背丈は高く筋肉質の体をしている。この堂々とした姿は、女王ムターともタメがはれるであろう。
第1楽章は、かなりの弱音で入ってきた。この第1楽章は、バイオリン協奏曲というよりかは、交響曲に近い。特に派手な技巧もなく、じっくり進んでくる。 じっくりではあるが、音色には細かく注意が払われており、弱音器を付けた場合とそうでない場合で弾き分けている感じであった。

第2楽章は、派手なスケルツォであるが、それほど派手には弾いていない。オーケストラとのアンサンブルを楽しんでいるかのよう。技法を要する曲であるが、ここは余裕で演奏していた。

第3楽章は、長大なソロがあり、この曲の肝である。ムローヴァは実に丁寧に重音を引き分けており、一人アンサンブルの様子である。長大なソロが終わり、静から動へ楽曲が 移っていくところの緊張感がたまらない。

第4楽章は、やや快速のテンポではあるが、ここも余裕をもっての演奏。まったく危なげなし。あっという間に曲が終わったという感じである。

 ムローヴァ故に、もう少し変わったことをやるのかと期待していたのが、案外オーソドックスな仕上がりである。この曲は、随分と手慣れた感じであるが、その点が物足りないといえば、物足りない。とはいえ、贅沢な物足りなさではあるが。

アンコールは、バッハの無伴奏パルティータから第3番の2楽章。最新CDのハイブリッド奏法をみせてくれるのかと思いきや、ここはオーソドックスな奏法。ボーイングに関しては、弓先から元弓まですべて使い切っての演奏で、真ん中で弾くよりも、弓先、弓元に配分して演奏している。この弓先、弓元に一瞬の力を加えて軽く抜くという奏法は、まるで書道の達人をみているかのごとくであった。

イザベル・ファウストが円の動きなのに対し、ムローヴァは、上下を生かした弓さばきであったが、両者の音色に影響しているのであろう。 自在性のファウストに対し、直線性の鋭さのムローヴァこんな感じであろうか。

 後半のプロは、ラフマニノフ。こちらの曲は、最近人気急上昇なのか、プロコンサートだけではなくアマチュアのオケでもよく演奏されるようになった来ている。ラフマニノフと言えば、映画音楽みたいで安っぽいイメージがあるが、この曲は、複雑な響きで渋い感じなのが良い。じっくり聴き込んでその良さがわかる曲である。私は、この交響曲に関しては、好意的に評価しているが、第4楽章は無くてもよいかなあと思っている。なぜなら第3楽章の出来が非常によいからだ。最後、ヴィオラで締めくくるというところが気に入っているのだが、どんちゃん騒ぎの第4楽章が入ってしまうと、せっかくの曲が台無しになっているような気がするのだ。
 


よいピアニストみっけ

 知人から招待券を頂いて東京楽友協会交響楽団というアマチュアオーケストラの演奏会に行って来た。首都圏ではかなりの数、おそらく数百のアマチュアオーケストラがあるが、中にはプロレベルの高い演奏をする団体もあり、その中の一つということなのだろう。かなりの集客数であり、1階席はほぼ満員、2階席は8割以上の人が来ていた。
 このオーケストラは、長い歴史があり 50年以上活動しているというのも凄い。過去のプログラミングをみていても、マーラーの6番とか、2番とか、大規模な編成を要する曲や、現代作曲家のリゲティなども取り上げている。今回は、イリーナ・メジューエワというロシア系女流ピアニストによるベートーベンのピアノ協奏曲第4番が組まれていた。


第94回定期演奏会

[曲目]
ウェーバー:「オベロン」序曲
ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第4番
エルガー:交響曲第2番
[指揮]
橘直貴
[ピアノ独奏]
イリーナ・メジューエワ
[日時]
2013年4月7日(日) 開場 13:00 開演 13:30 (予定)
[会場]
すみだトリフォニー大ホール

感心したのは、 メジューエワというピアニストで、実に論理的、かつプロらしい堅実で安定した演奏で、所々に知性を感じる演奏であった。まあヴァイオリニストにたとえると、レオニード・コーガンのような感じである。こういう人にヴァイオリン伴奏を頼みたいところだ。ヒラリー・ハーンなどは、ピアニストに困っているみたいなのだが、このコンビなら面白いのではないかと思う。

ちょっと気になったので、過去のインタビュー記事を読んでみると、

「日本の伝統芸能が型を大切にするのと同じで、ピアニストには譜面が大事です。同じ役でも演じる人によって味わいが変わる奥深さが古典の魅力だと思いますが、クラシック音楽も同じ。私の演奏会を聴いて、作品がすばらしかったと言ってもらえるようになりたい」

やはり音楽というのは、その人を映す鏡。まさにそのような演奏であった。

次にオーケストラの演奏であるが、
エルガーの交響曲第2番という演奏機会の少ない作品で、演奏会のプログラムノートにも、この作品は失敗作であると書かれていて、苦笑したが、この作品のもつ仕掛けの意図は十分に汲んでいたかのように思う。

エルガーのようなセンスで勝負するような作曲家は、交響曲のような大規模な曲よりも、バイオリン曲とかの室内楽の方が個性的で洗練されており作品の質が高いと思う。交響曲だとどうも無駄な部分が多く、冗長であるし、オーケストレーションも平凡で古くさい。この曲の場合は、2楽章はそれなりに良いのだが、3楽章は凝っている割には、やろうとしていることがわかってしまうくらい単純であるし、4楽章は、無くてもよいかなという感じ。言いたいことが、2楽章でとっくの昔に終わってしまっているのである。
やはり交響曲というのは、普通の作曲家レベルでは書けないのであろう。その点、ハイドンなんかは、100曲以上書いていて、全楽章に仕掛けが満載されており、無駄がなく、かつその内容に飽きることがないというのは、ものすごい事なのだと思う。



 
 
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