最近アクセス数が増えてきており、ついに1月は5000PV(ページビュー)を超えた。ブログを書いていて楽しいのは、どのような検索用語でここにたどり着いているのかということだ。たまに検索用語をネタにして記事を書くことがあるからである。今回、面白いと思ったのは、
『日本人が本物のクラシック音楽を評価出来ない理由』
という検索フレーズであった。
この問題提起は、クラシック音楽が本格的に日本に伝わった明治時代からあることだと思う。日本人の特性は、ご存じのとおり、オリジナルの開発は不得手であるが、オリジナルを輸入し、それを徹底的にまねし本物に近いものを作っていく。その一線を越えた段階で、日本人のアイデアを盛り込んだり、そぎ落としながらオリジナルをバージョンアップしていくことにある。
そういう考え方でいくと、日本人にとってクラシック音楽はどの段階なのだろう。個人的な考えだと、器楽音楽に関しては、オリジナルを徹底的にまねしつくした段階で、これからオリジナルなものを付け加えていく、ちょっと前の段階だと思っている。
声楽系に関しては、オリジナルからまだまだ遠い感じである。歌手の方は本場で勉強したりして随分とレベルがあがってきているのだが、聴衆の方が外国語の歌ということもあり、なじみが薄いかもしれないし、喜怒哀楽の劇的な歌表現には、日本人の感覚としてついてこれない感覚がある。でもそうしたものが、器楽にも応用されているので、この点で、物足りなさを感じることもある話である。
それと最近、イタリア語を覚えるとクラシック音楽を理解していく近道なのかもしれないと思うこともある。フォルテとかピアノとかの意味は、楽語辞典に記載されているような音量を大きくする、小さくするとかいう意味ではないし、スタッカート、テヌート、レガート、フェルマータとか汎用的に使わる楽語の意味も楽語辞典に書かれていることはほとんどでたらめであるので、こうしたところは、本場の先生のところでレッスンしてもらった方がよい。
昔、ブルックナーの演奏で、カラヤンはスタッカートを無視しているという批判が日本の評論家からも指摘されていた。つまり楽語辞典でかかれているように「音価の半分じゃないといけないだろう。こら!」という無知力マックスな指摘で叩かれたいた時代もあったのだ。しかしながらスタッカートの本来の意味は音をひとつずつ際立たせるという意味であって、音価を半分にするという意味ではないのである。
幸いなことに今の時代、日本人のプロオケの先生からもスタッカートの本来の意味を教えてもらえるレベルにはなっている。あと古楽系の先生たちも、随分とすさまじい知識があり、外国の演奏家からも、なぜ俺たちより知っているんだと尊敬される場合もある。わざわざバッハ・コレギウム・ジャパンの演奏を聴きにドイツから埼玉へ来る人もいるくらいなのだ。
また、地味な分野であるが、ピアノの調律師のレベルも今や国際的であろう。海外のピアニストに信頼されている調律師は多い。
そうこう考えていると、演奏家の方が本場に近いか、あるいはそれを超えて来ているのだが、それに置き去りにされた人たちが『日本人が本物のクラシック音楽を評価出来ない』というレッテルでみているような気がする。
肝心のクラシック音楽も昔のロマン派的演奏から、古楽研究を積極的に取り入れた形に変わってきているので、『本物のクラシック』そのものが随分と揺れ動いているように思うのである。
他、参考文献としては、以下の記事を読んでみると面白いかもしれない。
〈アーティスト・インタヴュー集〉
これらのインタビューを前にして、「本物のクラシック音楽を評価出来ない」と上から目線でのたまえるツワモノはどのくらいいるのだろうか。私を含めてみんな「井の中の蛙大海を知らず」である。これがクラシック音楽の奥の深さである。