バイオリンと録音と

クラシックのコンサート、バイオリンの演奏方法、バイオリンのグッズについての記事多し。他、楽譜(Lilypond , Sibelius)、和声学、作曲、DTM関連を取り扱っております。

モーツアルト

『2本のバイオリンのための組曲』を登録しておきました。
https://drive.google.com/open?id=1ynOSxS_4CD97qe05fArVmIE9hvtV6TD5

BCJ詣出

BCJを聴きに彩の国さいたまホールへ行ってきた。

モーツァルト:証聖者の荘厳な晩課(ヴェスペレ) ハ長調 KV 339
モーツァルト:レクイエム ニ短調 KV 626

鈴木雅明(指揮)
キャロリン・サンプソン(ソプラノ)
マリアンネ・ベアーテ・キーラント(アルト)
櫻田 亮(テノール)
クリスティアン・イムラー(バス)
バッハ・コレギウム・ジャパン(合唱・管弦楽)

BCJコンサート


 彩の国さいたまホールは、600人規模の中ホールであるが、とても音響が良い。響き過ぎず、乾き過ぎずこのくらいの編成のオーケストラを聴くのはちょうど良いホールである。座席スペースもゆとりがあるし、座り心地もよい。何よりも客席に段差があるので、前の人に邪魔されずに集中して聴けるものよい。今回は、2階席に興味があったので、その中央2列目に席を取る事にした。

埼玉彩のホール

2階席


さて、演奏の方なのだが、 
バッハ・コレギウム・ジャパンは、日本が誇る世界最高峰の古楽オーケストラなのでいつ聴いても安心して聴ける。固定客も多く、他の演奏会にはない独特の雰囲気が観客席からも感じることができる。私の座っていた席には、ドイツ人と思われる西洋人の客も3人ほどいたというのも驚いたのであるが、始終静寂で、曲間でも咳すらしない聴くことに集中した姿勢、観客の方も、クラシック音楽を極めた方々が集まる最高峰の聴衆だ。
今回、モーツアルトの演奏である。モーツアルトを単独で聴きにいくことが、最近、ちょっと増えて来たように思う。
昔のモーツアルト演奏は、ビブラートをかけまっくてやたらと甘ったるく、ヴィナーコーヒーのクリーム山盛りで、砂糖が10杯くらい入っている演奏ばかりであったので、自然と聴くのを拒否していたのだろうと思う。カルミニョーラの今このときに音楽が生まれてくるような凄いモーツアルトを聴いていらい、興味が湧いてきたのであった。それと最近は、ありがたいことに古楽的演奏が、バッハ、ハイドン、モーツアルトの世界では常識となり、作曲家の音楽的意図がはっきりとわかるようになってきたのも大きなことだと思う。

そんなこんなで、古楽演奏の聖地を求めてBCJを聴く事としたのである。

まず、一曲目は「
証聖者の荘厳な晩課」であった。この曲に関しては、今回初めて聴く曲であったのだが、面白い響きだ。荘厳な晩課の正体は、グレゴリオ聖歌であったのだ。古い教会の音楽とモーツアルト音楽の合体した曲が、この曲になる。何か聴いていると、16世紀と21世紀をいったり来たりしているような感覚になる。曲がタイムスリップしているのである。
モーツアルトには、弦楽四重奏曲の「不協和音」の冒頭のように、たまに驚くようなことをやってくれるが、この曲もその一つであろう。こんな曲も書いていたのだと結構驚いてしまったのであった。

2曲目は、有名曲の
レクイエムである。恥ずかしながら生演奏で聴いたのは、初めてであったのであるが、オーケストレーション的に意外であったのが、ホルン、オーボエ、フルートが入っておらず、かわりにトロンボーンが、アルト、テナー、バスと三本が揃っていたことである。バセット・ホルンについては、この曲が使われることを知っていたのだが、クラリネットが入っていなかったことも驚いた。CDで聴いているとこういうことはあまり意識しないことなのである。

それにしても、トロンボーンの三重奏が素晴らしい。こんな効果が出せるのであれば、他の交響曲でも積極的に使えばよかったのに、もったいないと思ったくらいである。モーツアルトが長生きしてベートーヴェンの第五交響曲を聴いたとしたら、彼ならもっと面白い効果を考えついたのかもしれないとつい思ってしまう。

曲の方は、BCJ故に何も言う事はなし。モーツアルトの音楽が、そこにあると言う感じで、クラシック演奏という範疇を超えて、ある意味、神を詣出に神社に行っているようなものである。神社に行く人で神社を批評するような人がいないように、批評することが野暮である。
キャロリン・サンプソンの美しい歌声を聴いていると、聴けるだけでありがたいと感じてしまう。贅沢を言い出すと、男性合唱団の素晴らしい音量の前に、女性合唱の音量が少しもの足りないと感じたことくらいであるが、これとても季節が変われば景色も変わる程度の感想である。

ということで、来年の4月に開催される「マタイ受難曲」のチケットも
無意識に予約していたのであった。 


 

KV216の楽譜を買い直す



KV216のマンゼ版と先生の持っているカール・フレッシュ版のあまりのフレージングの違いに閉口し、カール・フレッシュ版を買い直すことにした。ボーイングがまったく違うので、レッスンのたびごとに修正されるのは、ちょっとしんどいこと。臨機応変でいきたいところだが、ああ、悲しきかな初学者。一つ覚えたボーイングを修正するのは、とても大変なことなのだ。

クラシック音楽の場合、楽譜通りに弾くということは、良く言われていることだが、あながち間違いではないとしても、もう少し突っ込んで言うと、クラシックの演奏は版を選ぶというところから始まる。プロになると、複数の版を研究したり、作曲家のオリジナル原稿のファックシミリを確認したりして演奏しているのが普通のこと。こうして出来上がった楽譜を自分のオリジナルの楽譜として演奏しているのであり、楽譜通りに書かれている
フレージンングをそのまま演奏するということは、ほとんどない。あるとしたらコンクールでの演奏であろう。ただし、音程は変更してはいけないというのはルールかもしれない。

ということで、面白くなってきたのでマンゼ版、
カール・フレッシュ版、を比較してみた。
マンゼ版の方は、モーツアルトの書いた楽譜を忠実に編集するという意図がみられる。
カール・フレッシュ版は、バイオリニストの視点でフレージングが細かく書いてあることである。もちろんモーツアルト自身がそのように書き込んでいるわけではないのだが、長年の伝統的なスタイルが集積されたものと考えてもらってよいと思う。

●マンゼ版
 スタッカートではなくスタッカティ
シモになっているのが古楽らしい感じ。

  KV216第一主題│マンゼ


●カール・フレッシュ版
これは従来のクラシック・スタイルのフレージング。ご丁寧なことにフレージングごとに区切り記号(/)も入っている。スラーの付け方が、マンゼ版と大きく違うことがわかるであろう。
なお、47小節にでてきる装飾音だが、フレッシュ版では、モーツアルトの書いた装飾音符を演奏しやすいように翻訳して楽譜に書いてあるが、マンゼ版では装飾音符をそのままにしている。この装飾音って、翻訳してしまったら音楽的なニュアンスを無くすのではないかと思うのだがどうなんだろう。少し文献を読んでみる必要がある。

KV216第一主題│CF

 第一主題のフレージングが、ここまで違うと音楽が発展の仕方がまったく違うようになるのだが、これが、現代の古楽の成果として新鮮なモーツアルト像を提示していることに繋がるのであろう。
実際にマンゼやカルミニョーラの演奏は実にフレッシュである。古楽ではこうしたスタッカートの表現にとてもこだわる傾向にある。
 私は、モーツアルトはあまり好きな作曲家ではなかったのだが、それは退屈な演奏によるものが大きかったのだろう。こうした最新古楽の生き生きとした演奏に触れることによって興味がわいてきた。 
とはいえ、オールドスタイルでの演奏法をマスターすることも重要であろうから、レッスンではこちらを尊重していく。
 

ヨアヒム版のモーツアルト第3番KV216

発表会用に練習してきたバッハのバイオリン協奏曲第1番 第3楽章。3月の発表会の予定が、7月に延期になった影響で次の曲をやることに。次の曲は、モーツアルトのバイオリン協奏曲第3番とのこと。

で師匠にこの曲の版はどれを使うのか尋ねてみたところ、

「ヨアヒム版にしてほしい。」

とのことで、何やらぼろぼろになっている楽譜をみせていただいた。
相当数の書き込みがあるすごい楽譜であった。表紙をみようとしたのだが、表紙がない。そんな楽譜を師匠はパラパラとめくり、ここがヨアヒムのカデンツァだよと教えていただいたところには、

《このカデンツァはヨアヒムのものである

 と注釈が印刷してあった。 

3番においてヨアヒム版は、あまり聴いたことがない。普通はイザイ版ではないのかと思っていたのだが、まあそれなりの楽譜店に行けば、おいてあるだろうということで、ヤマハ銀座店へ行ってきた。

銀座店において私は、いちいち楽譜など探さず、○○の楽譜はどこにありますかと尋ねるようにしている。そうすると面白いからである。例えば、少し前にバッハのマタイ受難曲の注文をしたところ、オーケストラ譜だけではなく合唱譜も2種類もってきてくれた。オーケストラ譜のある3階にある楽譜を把握しているのは当然としても、担当の違う2階の楽譜棚を把握しているとは、何とプロ意識の高い店員なんだろう思ったわけだ。このように大抵の場合、複数の楽譜をたくさん持ってきてくれるのがこの店のサービスの売りと思っている。

で、今回、

「モーツアルトの3番の協奏曲で、ヨアヒム版はあるのか?」

と尋ねてみたところ、女性店員さんの目がキラリと光った。
(う〜、何なんだこの目の輝きは!!)と思った瞬間。店員はすかさずこう答えた。

「それです。それ。私も一生懸命探しているのですが、無いんです。第4番、第5番のヨアヒム版は、コンクールでも指定されることがあるくらい有名なんですけど、3番はないんです。3番のヨアヒム版を探しているお客さんは多いのですよ。何か知っていますか?」

と逆に尋ねられてしまう始末。

「私の先生はその楽譜をもっているのですが」

「それ、どこの出版社ですか?ぜひ教えてほしいです。」

「かなりぼろぼろの楽譜なので表紙もないんですよ。そんなに貴重が楽譜だったのですか。」

「それは、それは、とても貴重です。」 

ほ〜う。先生の楽譜 はそれほど貴重だったのだとあらためて感嘆。思えば、その楽譜、どこかの大学の図書館の資料室にあるような感じだったなあ。

これほどの大きな楽譜店でもないのであるから、現在は出版されていないのかもしれない。
とりあえず、来週はレッスンということで、楽譜を買っておく必要があるので、10種類くらいある楽譜から吟味する。

イザイ版が有名で、カール・フレッシュ版、オイストラフ版、ベーレンライター版、その他、もろもろ。

しかし、 作曲者はモーツアルトなのに、カデンツァの種類の豊富なことには驚く。ただ、私は思うのだが、イザイ版なんていうのは、モーツアルトの時代のバイオリン技術を明らかに超越していて、パガニーニ以降の技法に近い。もっとモーツアルト時代にあった技法によるカデンツァはないものかと。

そう思って探していると、あるじゃないですか。マンゼ版。アンドリュー・マンゼといえば、古楽最高峰のバイオリニストであり、私の考えるNo1バイオリニスト。No1というのは、いずれNo1で無くなるときがくる世の無情なる存在なのだが、この人だけは、その輪廻から解脱した孤高の存在なのだと思う。その人が書いてくれているカデンツァ。ヴィルトオーゾ時代の嫌らしい目立ちたがり意識が下品なカデンツァとは格調が違う。まさにモーツアルト自身が書いたカデンツァの神々しさがある。さすがマンゼである。
(⇒もうこの時点で、ヨアヒム版はどうでもよくなっている私自身が怖い)

で、即購入と思ったのだが、いかんせん、指番号が書いていないで、初学者の私にとっては、ちょっと荷が重い。買うべきが買わざるべきか、30分も悩んでしまった。
で、ここで悪知恵が働いた。ならば指番号が書いてある楽譜と合わせて購入すればよいのではと。

「そうかこんなことでいちいち悩む必要はない。ここは大人の2冊買いじゃないか」
ということで即決。

で、購入してきた楽譜が以下である。それにしても、フレージングが全然違う。これが最新古楽の成果なのだなあと感じ入った。フレッシュなモーツアルトである。

 KV216表紙

 
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