バイオリンと録音と

クラシックのコンサート、バイオリンの演奏方法、バイオリンのグッズについての記事多し。他、楽譜(Lilypond , Sibelius)、和声学、作曲、DTM関連を取り扱っております。

武満

『2本のバイオリンのための組曲』を登録しておきました。
https://drive.google.com/open?id=1ynOSxS_4CD97qe05fArVmIE9hvtV6TD5

主催者が最低なコンサート

武満の室内楽を聴きにトッパンホールへ行ってきた。

2016/6/25
武満 徹没後20年 TAKEMITSU OPERA

WATER∞COSMOS(ウォーター リンク コスモス)

パーカッション
吉原すみれ、菅原 淳、小森邦彦、山口恭範(パーカッション)
小泉 浩(フルート) / 木村茉莉(ハープ) / 高野麗音(ハープ)
鈴木良昭(クラリネット) / 藤原浜雄(ヴァイオリン) / 毛利伯郎(チェロ)
木村かをり(ピアノ) / 小賀野久美(ピアノ)
中村鶴城(琵琶) / 柿堺 香(尺八)
 
プログラム

武満 徹: 雨の樹
ブライス
雨の呪文
ウォーターウェイズ
 エクリプス(蝕)
オリオン
閉じた眼 I
ビトゥイーン・タイズ


 今回の作品の目玉は『雨の樹』である。この作品はおそらく打楽器アンサンブルの最高峰に君臨する曲とみて間違いないのだが、なかなか聴く機会がなかったので是非とも聴きたいと思っていた。しかもトッパンホールで聴けるなんて最高ではないのかな。

ということで、早めにトッパンホールへ行ったのだが、なかなか会場しない。13時30分開場の予定だったのだが、20分以上も遅れている。遅れた理由はどうやら練習が長引いているとのこと。ようやく開場し、プログラムをもらって席についたときに気が付いた。チラシの中にプログラム1部300円と書いてある紙が挟んであった。チケットを確認するときに言ってくれればよいのにと思ったのだが。苦笑。

こうした現代音楽のプログラムには、作品の詳細が書いてあるものであるが、このプログラムは、ペラペラのチラシにすぎず作品についての詳細が、ほんの数行ずつしか書いていない。


「なんだこれは?」


と少々憤慨してしまった。お金を取るほどのものでもなかろうに。

とはいえ、こんなささいなことで、演奏前の集中力が台無しになってしまうのは避けなければならない。ここは我慢だ。


そうこうしているうちに、随分とおくれて演奏会が始まったのだが、趣向を凝らしているのかどうかわからないが、武満の映像と録音した音楽が流れてきた。安物のパビリオンのように流さなくともよいのに、何か解説でもあるのかと思っていたところ、この邪魔な音響が終わらないうちに、『雨の樹』の演奏がはじまってしまった。


「はあ~!!!」


この曲は、静寂のなかからぽつり、ぽつりと雨の粒が降ってくるところが最大の魅力であり、それを聴くために、すべての神経を集中して聴いているのにこれは酷すぎるにもほどがある不意打ちである。この不意打ちで、頭から湯気が噴き出すくらいの状態になり、しばらくは音楽を聴いている正常状態にはもどれなかった。

この企画を計画した人は、クラシック音楽というものをまったく理解していないに違いない。この人に教えておいてやろう。クラシック音楽のコンサートは、演奏者と聴衆との神聖な戦いの場でもある。ソリストが舞台にあがり、しばらく楽器をもったままでじっとしているなかで静寂が深まっていく。そのときに突然音楽が鳴り出す。その瞬間こそがクラシック音楽のだいご味なのである。

主催者は武満のこの言葉を知っているのか?

『音、沈黙と測りあえるほどに』

だ!!!!

と指導モードに入ってしまったが、演奏そのものは初演者もたくさん交えているので素晴らしものであったから、このダメ演出には一層腹がたつ。タッシ・アーツ最低だね。名前を記憶しておく。

次回は、トッパンホールが主催となり、武満の演奏会をやってほしいものだ。


追記:

 トッパンホールで聴く打楽器の音は、弱音であっても直接に耳に届き、より大きく太く聴こえることに驚く。打楽器はアタック音が速いので、残響が少し遅れて聴こえてくるのである。こんな小さなホールなのに、残響にディレイがかかっているのがわかるのは新鮮な驚きであった。これがバイオリンの場合うまく聴こえる音響になっているのだろう。

 ブライスを聴いてときに、ぶったまげた。2台のハープの音程がまったくあっていないのである。気持ち悪い響きだ。最初、え~と思ったのだが、これはガメラン音楽を模したもので、そうした趣向なのである。それとハープによる特殊奏法である弦の根元のところをハープのフレームにそってこすりながら奏法は面白い。キュ~~ン、キュ~~ンと不思議な音響だ。
 
 エクリプスを聴けるとは。かなりラッキーだ。この作品は当時、武満が和楽器である琵琶と尺八にどんなことができるのか試す目的で作曲している。基本は伝統にそった弾き方と思うが、ところどころ、和楽器による前衛奏法がさく裂するのが面白いのだが、西洋の伝統奏法であるトリルが尺八にできるのかと妙に感心する。

ビトゥイーン・タイズは、武満の晩年作品。バイオリンとチェロの掛け合いがなんともベートーヴェン後期弦楽四重奏曲を彷彿させるワクワク感があるのだが、いかんせん展開部がありきたりで説得力なし。こうした作品を聴くと、ベートーヴェンがいかに偉大な作曲家であったのかかがわかる。日本人作曲家はありきたりの展開部しかかけないのである。宇宙的な想像力にあふれた展開部をかける作曲家は、バッハ、ハイドン、モーツアルト、ベートーヴェン、バルトーク、ブラームス、ラヴェル、シベリウスなど、西洋音楽のなかでもごく一部であるので仕方ないのであるが。

 これは全体的な印象だが、武満の作品だけでプログラムを構成するのはつらいものがある。テンポが緩やかで各作品が似ているので、集中力が持たない。バッハの無伴奏の連続演奏会だとそれだけで宇宙になっているので、2時間くらいは何ともないし、演奏者の疲れなどの肉体的な理由からも音楽に揺らぎが生じるので、そこはかとなく人間を感じる瞬間があって面白いものなのだが。


いまのところ、武満の室内楽で残っていくものは、以下の曲かなあ。クラシック音楽の場合は、後世に残るかどうかは、聴衆が決めるものではなく演奏家が決めるものであるので、どうなるかはわからないが、聴衆の視点から考えると以下であろう。

弦楽四重奏曲:ア・ウェイ・ア・ローン【繊細な傑作】

打楽器のための作品:ムナーリ・バイ・ムナーリ【傑作】

打楽器のための作品:雨の樹【日本の最高傑作品】

アルトフルートとギターのための:海へ【標準レパートリー】

カトレーンII【佳作】

ピアノ:雨の樹 素描I、素描II 【佳作】

十一月の霧と菊の彼方から 【駄作 コンクール用】

妖精の距離 【聴きやすいが駄作】




現代音楽考

現代音楽は、若い頃に随分と興味をもって聴いていたのだが、最近はまったく興味がなくなってきた。理由は、おそらく武満徹が亡くなって以降、面白いと思える作品が随分と減ったことにあると思う。

嘗て武満徹を追っかけていれば、現代音楽の動きがわかる幸せな時代があった。彼が主催する「ミュージック・トゥデイ」という企画によって、国内外の作曲家の動きがよくわかった時代があったのだ。これが武満が亡き後に機能しなくなってから、現代音楽の動きがとてもわかりずらくなったようになったと思う。
近藤譲、西村朗、細川俊夫など、次世代の方向性をうまく解説できる作曲家もいるのではあるが、やはり武満徹から比べると、メシアン、クセナキス、リゲティ、ジョン・ケージとも親交があり楽曲紹介能力もあった武満と比較して小粒な感じである。

一方、『和と西洋対峙美学の宇宙人』武満徹に対抗できる歴史的意義をもつ人は、『沸き立つ阿修羅の巨大な生命力』の松村禎三と『死者からの怒号』の三善晃なのであるが、おそらく、この日本におけるスーパー三大魔神が亡くなってから、『熱い魔界が急激にスノーボールアース』になってしまったような氷河期にも似たつまらなさに急激に興味が失せてしまったのだろう。

他に、松平頼則、柴田南雄、廣瀬量平、八村義夫など、綺羅星のごとくいた作曲家も今はいない。前衛プラス和風の廣瀬量平の「チェロ協奏曲「悲(トリステ)」や、八村義夫の「錯乱の論理」等、怒涛の前衛音楽にしてとてもエゲツナク・カッコ良い作品などよく聴いたものである。

ということでしばらく現代音楽から遠ざかっていたのだが、あるサイトを見つけた。このサイトでは、なぜ現代音楽がわかり難いのかを丁寧に解説してくれていた。自分勝手に要約すると「現代音楽は“垂直方向の響き”を目指しているので難解になるのであるが、そこのところを聴衆は理解してほしい」というものであった。
“垂直方向の響き”については、本文中で細かく解説してくれているのであるが、すでにショスタコーヴィチによって“垂直方向の響き”は随分と探求されているのではないか?とも思ったのであった。

彼の交響曲第8番などは、“垂直方向の響き”の強烈さをもつ最高傑作であろう。別にショスタコーヴィチを賞賛する意図は私にはないのであるが、現代の作曲家が、“垂直方向の響き”を探求している時点で、発想がすでに時代遅れなのではないかとも思うわけである。

上記のブログを読んでしばらく後で、若手作曲家の藤倉大のインタビュー記事を読んだのであるが、その中で

「嫌いな作曲家はショスタコーヴィチ。政治的な理由があったにしても、前に進んでいない。彼がいてもいなくても、今の音楽は変わっていない。」

と、勇ましく述べておられるのであるが、ショスタコーヴィチが“垂直方向の響き”の探求者であったと仮定すると、この回答は現代音楽作曲家としてなんとも皮肉な感じがするのである。前に進んでいないと思っていたら、遥か先にショスタコーヴィチがいた。なんとも、孫悟空とお釈迦様の関係のようだ。

それに普通の作曲家がいくら頑張ってみても手の届かない絶対境地の音楽を書いているのだが、藤倉がこのレベルの深みのある曲がかけるのかは、今のところは非常に疑問である。

ヴィオラ・ソナタ
弦楽四重奏曲第15番

他に、交響曲第14番とか、チェロ協奏曲第2番とか独創性にあふれている作品も数多いのであるが、前衛が保守よりも圧倒的に独創性に優れているとは限らないのである。そうした視点で、藤倉大の作品を何曲か聴いてみたものの、今のところ際立った新しさは私には何もないように感じる。「人類は進歩すべきなのである」という古臭い方法論のなかでウロウロしてしまっている感じがするのである。たぶん、この方向性からは、新しいことは生まれないのでないかと予感するが、『一念岩をも通す』ということわざもあるので、その気持ちの強さも作曲の根幹としてとても大事なもの。

こうした気持ちは、伊福部昭、別宮貞雄、原博という保守派の作曲家に強力にある生き様なのであるが、こうしたことが、ぶれやすい前衛作曲家にあって、「我が前衛の生涯に悔いなし!」というような己を通してほしいという気もするのである。

さてさて、最近になってわかってきたのは、歴史的意義とか、先駆性とかいうカッコ良い勲章を求めるのではなく、数百年間歌い継がれる、あるいは聴かれ続けることを意識しているかどうかということなのだろう。でも、難しいのは、そういた意図を入れてしまうとたちまちにその音楽が腐ってしまうということである。結局は、歴史的意義とか、先駆性を考えながら苦闘し、悶絶し、そのアクがとれるまで作品を書き続け、その抜け殻が、後世に残る作品の資格を得るのであろう。クラシック音楽の生き残りにおいて聴衆は何の役にも立たない。もう一つの条件は、演奏家がその作品を弾きつづけてくれて、かつ演奏譜、パート譜が残ることなのである。

なので、作曲家は、どんどんと演奏してもらう努力を惜しんでは駄目なのである。武満作品がたくさん生き残っているのは、生前から演奏されて、楽譜が残っているということが重要なのである。

●追記
 個人体験で恐縮であるが、ここ数年間で衝撃のあった曲は、以下である。

 ・リゲティ・ジェルジュの「ロンターノ」
 1967年の作品なのであるが、オーケストラの生演奏で聴いたときには、音の色が虹色に見える斬新な響きに驚いた。この作品は、とても最弱音が美しい作品なのでCDだと良さがわかりずらいと思う。音響のよいコンサートホールで聴くべき作品。


 ・アルヴォ・ペルトのフラトレス
 
 バイオリンの特殊奏法を極限まで有効に使った斬新な響き。ヨーロッパの古い音楽の伝統を凝縮したような部分との融合も素晴らしい。20世紀最高の無伴奏バイオリン・ソナタの一曲としてよいであろう。

ミッキーおかえり

しばらく癌で闘病中であった井上道義(ミッキー)がサントリーホールに戻ってきた。それも彼らしい最先端のプログラムで。もしかしたら復帰は難しいかもと、オケの先生も言っておられたのだが、いざ、ステージに立つと、さすがミッキーである。いつものミッキーダンスと、曲間のトークも健在だ。音楽は、喜びに満ち満ちた力強いものであった。正直、言ってほっとした。しばらくは健在でいてくれることと思う。

ミッキー、あなたのいない間に、日本に寿司を食いに来ただけの海外の評論家どもが、日本のオケは、積極性が足りないなどと、上から目線でいちゃもんをつけまくって吠えていたが、この日本で、最先端のクラシック音楽を聴かせてもらえるのは、やはりあなたしかいない。その力で聴かせてほしい。

そうした願いが、実現したのが、以下のプログラムである。

どうだ。海外の評論家ども。こんなプログラムは海外オケでは、とてもじゃないがやれんだろう。これが日本のクラシック音楽というものだ。

日時2015年1月29日(木) 19:15 開演

武満徹: 地平線のドーリア
吉松隆: トロンボーン協奏曲『オリオン・マシーン』 op.55
リゲティ: ロンターノ
クセナキス: ノモス・ガンマ
指揮井上道義
出演トロンボーン:山本浩一郎
新日本フィルハーモニー交響楽団
とここまでは、威勢良く吠えてみたが、海外の評論家からいちゃんもんを付けられても仕方ない部分もあったのは事実。この点をカイゼンしていくのが、メドイン・ジャパン・オーケストラである。

●地平線のドーリア

この曲は、日本を代表する傑作中の傑作であり、聴くたびごとに、その極限までに切り詰めた音響に感動する。まるで、冬の枯れ草のようだ。その枯れ草を冷たい風がそよそよと吹いて、緩やかに揺らす感じが実に和風の庭園を思わせる。さて、気になった点は、演奏者がとても若いので、多分、日本の伝統音楽をあまり聴いてないのかもしれないが、妙に拍があるように感じ、外人が演奏した武満のようになっているところだ。妙にデジタルな部分が気になった。あと、歌舞伎の音楽でやるようなビシバシと弾く、叩く部分は、もう少し積極的に。こうした音楽は、暗譜するくらいに演奏し、古い世代の演奏家が、若い演奏家に伝えていくべきものを継承させる必要があるのだと思う。武満の音楽は、楽譜に書かれていない部分も重要である。

●オリオン・マシーン

地平線のドーリアのあとで、この曲を聴くとなんと甘ったるい音楽なんだろうと思う。吉松隆に足りないのは、クラシック音楽としてのキリッとした部分とか、深みが不足している点であろう。まあ、そうしたものを求めていないとすれば、演奏者の方が考える必要があるかも。特に打楽器は、ジャズ的要素に教養が必要で、リズムがのりのりでビシバシと切り込む鋭い音が必要なのだと思う。まあ、サントリーホールはよく響くので、ビシバシとした音は実際には難しいのかもしれない。

さて、トロンボーンは、急遽代役となったとは、思えないくらいの自由闊達の演奏で、特にカデンツァは、アメリカンな要素や、パフォーマンスがあって面白かった。このパフォーマンスによって観客席からも笑い声が聞こえたのは、現代音楽では珍しいこと。この曲に関しては、終楽章が少し短すぎるのでないのかとずっと思っていたが、長いカデンツァのおかげで、丁度よいバランスに仕上がったのはよかったと思う。

●ロンターノ

リゲティの作品のなかでも有名らしいのだが、この曲は初めて聴いた。不勉強を恥じる。旋律も、リズムも存在せず、音響だけで構築する音楽。微妙なテクスチュアが秀逸。明るい響きから、どす黒い響きまで、徐々に変化していく。初演されてから随分と経過しているが、今聴いてもとても斬新な響きである。
曲の終わり、非常に低い微弱な音の長いロングトーン。最初は空調の音かなあと思ったのが、このような音って、CDでは取り切れないのではないかと思う。やはり実演は聴いておくべきなのだろうね。

●ノモス・ガンマ

今回の演奏会の目玉。まさか生きているうちに聴けるとは思っていなかった。指揮者を中心に円を囲むオーケストラの特殊配置。そのため観客席に背を向ける配置になる。その外側に打楽器群。打楽器群は第二次世界大戦中の機関銃、大砲の音を模倣しているらしい。構造らしい構造は存在せず、銃弾の中をあちこちを逃げ回るような各楽器群。弦楽器もボーイングもへったくれもない。さらに、この曲も終わり方が秀逸。終わる瞬間の音とどうじにオーケストラの全員が観客席を振り向いて立つ。なんか、この瞬間、すべての兵士から銃を向けられたような錯覚に陥ってしまった。さすが、天才高橋悠治の師匠の作品だけある。


ということで、色々と楽しめた演奏会であった。今年は、ミッキーの演奏会は注目しておこう。
 
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